男子4×100mリレー
陸上の花形とも言われる短距離のラストを飾る種目。
’08年の北京五輪で日本史上初の銅メダル獲得は多くの人の記憶にあるかもしれない。今や世界でもリレー強豪国となっている日本だが、花ひらく直前のアテネでは「4位」という苦汁を味わっていた。
出遅れたスタート
’04年のアテネ五輪、男子男子4×100mリレー決勝。スタジアムが静寂な空気に包まれる中、日本の第一走者の土江寛裕はスタート音とともに走り出した。
「イギリスのフライングで仕切り直しになった2回目のスタートでした。ただどうしても記憶がおぼろげなんです…」
4位という順位は、日本の同競技史上最高順だった。しかし、一方で3位のナイジェリアに0.26秒差、約2mの差でメダルを逃した。
「讃えてくれる声も多かったんですけど、やはり残念という気持ちが強かったですかね。なんとか代表メンバーに入れた僕としてはリレーにかけていた。最後のオリンピックでメダリストになって、競技人生を終わりたいと思っていましたから」
この時はまだ、土屋自身、自分の身に何が起きているのか気がついていなかった。
レース後、カメラの前でインタビューに答え、囲み取材を受けた。すると人波の中から顔なじみの専門雑誌記者に聞かれた。
『あれ。1回目のスタート、どうしたの?』
え?何が?土江は一瞬、記者が何を言っているのか意味がわからなかった。
あわててモニターをみる。そこで初めて何が起こったのか理解する事になる。
「取り返しのつかないミスをしてしまった…」
ことはレースのスタートシーン。
各ランナーの後ろには小さなスピーカーがあり、そこからスタート用ピストルの引き金を引く「カチャン」という音が聞こえる。ランナーはそれを合図に走り出す。それからわずかに遅れて「ドーン」という爆発音が場内用スピーカーから流れる。
つまりランナーが聞くスタート音と場内に流れるものとで時間差があった。土江は1回目、「カチャン」に反応して走り出したが、直後に「ドーン」と聞こえたため自分がフライングしたと勘違いしてレースを止めた。実際にフライングをしたのはイギリスで別のブザー音が鳴っていたのだが、土江は「カチャン」では早いのだと思い込み、動揺していた。そして仕切り直しの2回目では、本来反応すべき音よりも一拍遅い「ドーン」を待ってしまった。
明らかにスタートは遅れた。隣のレーンの選手も遅れたため土江は気づかなかったが、プレス席からランナーたちを俯瞰して見ることのできた記者たちは異変に気付いた。
「日本でやる大会のスタートシステムとは少し違っていて、事前に他の日本選手から『音の聞こえ方が変だぞ』ということは聞いていたんですが…、あまりの緊張で頭から吹っ飛んでしまっていました」
この時のスターティングタイムを見てみると0.3秒以上かかっていた。第一走者のスペシャリストである土江はいつもなら0.12〜0.13秒台で出られるはずだった。
「その0.2秒、距離にして2mというのはそのまま銅メダルのナイジェリアとの差なんです。つまり僕の責任でメダルを取れなかったんです」
「なにしてんねん」。チーム最年長の朝原はそう言っただけで、あとはカラッと笑ってくれた。末次慎吾、高平慎士も何事もなかったように接してくれた。
「それが逆に辛くもあって…。オリンピックのファイナルって、みんなにとっても人生で一番大事なレースで、次は4年後なので。そんなところで僕がミスをしてしまって、本当に申し訳なかったです」
幼少期は父親からどんな小さなかけっこでも「1番になれ」と言われてきた。
高校の時、インターハイで3位になって喜んだら、こっぴどく叱られた。
「1位以外は全員が敗者なんだ」
そんな環境で育ってきた土江にとって、4位という順位は受け入れがたい順位だった。
アテネでの「0.2秒」。これを取り戻すことが土江の原動力になっていた。
立場を変えて与えたもの
2006年に引退をし、その後は代表スタッフとなり、北京五輪にむけた強化合宿に参加することになった。
北京でこそ、メダルをー。
この大会にかける4人のメンバーをサポートすべく、毎日リレーの戦略を考え続けた。
中でも一番肝となるのが、「バトンパス」。
この大会を経て、一躍世間に知れ渡った「アンダーハンドパス」もこの時に様々な工夫をされていた。
当時、主流だったオーバーハンドはランナー同士が近づかなくて済むという長所があるが、その反面、パスを「点」で合わせなければならないという難しさがある。逆にアンダーハンドは近づかなければならないが、パスは「線」で合わせればよかった。
世界と比べて個々の力で劣る日本が、好タイムを出せる確率が高いのはどちらか。
土江は、走行動作の映像を何度も見返し、コマ送りをして、何度も何度も研究した。そしてメンバー一人ひとりのデータまで測定し、確固たる根拠のもとアンダーハンドパスを採択して北京に望んだのだ。
思いが乗った北京五輪では、念願のメダル獲得。見事に3位に輝いた。タイムも38秒15。
アテネの夜から「0.34秒」縮めた。
そう、土江は立場を変えて、4年後の舞台であの「0.2秒」を取り戻したのだ。
当時のアンカー、元同じメンバーの朝原からは、
「ツッチーのおかげだ。ありがとう-」というメッセージが届いた。