Memo
- 人間=芸術
- 人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。ぼくは逆に、積みくらすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。 人生に挑み、ほんとうに生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命をひらくのだ。それには心身とも無一物、無条件でなければならない。捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋にふくらんでくる。 今までの自分なんか、蹴トバシてやる。そのつもりで、ちょうどいい。
- 「モノマネ人間」にはなにも見えない
- しかし、よく考えてみてほしい。あれかこれかという場合に、なぜ迷うのか。 こうやったら食えないかもしれない、もう一方の道は誰でもが選ぶ、ちゃんと食えることが保証された安全な道だ。それなら迷うことはないはずだ。もし食うことだけを考えるなら。 そうじゃないから迷うんだ。危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ。ほんとうはそっちに進みたいんだ。 だから、そっちに進むべきだ。ぼくはいつでも、あれかこれかという場合、これは自分にとってマイナスだな、危険だなと思う方を選ぶことにしている。
- 一度死んだ人間になれ
- 心の動く方向にまっすぐいく
- 誰もが好奇心を大いに発揮して、真剣に、無条件に、人生をひらいてほしい
- どっちにいくか迷ったときは、自分にとってマイナスだな、危険だなと思う方を選ぶ。人間は弱く、逃げたがる。だからこそ、危険なほうへ。
- 続かなくたっていい。三日坊主でもいい。大事なのはやろうと思ったことで、その瞬間に全てをかければいい。だけど、“いずれ”という表現はだめ。今、この瞬間瞬間に情熱を注ぎ切らなければならない。現実を充実させることでしか、未来はひらけない。
- 成功とは何か?「自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか。
- 最大の敵は自分。相対評価ではなく、「僕だったらこうする」でいい。
- ひたすらそれを貫いてみる。はたからみれば、あの人は何という意志の強い人なんだろうということになるんだ。 あっちを見たりこっちを見たりして、まわりに気をつかいながら、カッコよくイージーに生きようとすると、人生を貫く芯がなくなる。そうじゃなく、これをやったら駄目になるんじゃないかということ、まったく自倍がなくってもいい、なければなおのこと、死にもの狂いでとにかくぶつかっていけば、情熱や意志がわき起こってくる。 世の中の一般の人は、あの人は意志が強いから、これだけのことをやったんだと評価するかもしれないが、今言ったように、それは順番を取り違えているんだ。 繰り返して言う。うまくいくとか、いかないとか、そんなことはどうでもいいんだ。結果とは関係ない。めげるような人は、自分の運命を真剣に賭けなかったからだ。 自分の運命を賭ければ、必ず意志がわいてくる。もし、意志がわいてこなければ運命に対する真剣味が足りない証拠だ。
- 何を言っても、なんかほんとうの自分じゃないという気がする。自分は創造していない、ほんとうではない、絶えずそういう意識がある。自己嫌悪をおこす。 そんなとき自己嫌悪をのり越えて、自分を救う方法が二つあると思う。まったく自分を無の存在と考えるか、あるいは徹底的にそんな自分自身を対決の相手として、猛烈に闘ってやろうと決めるか、どっちかだ。
- そういう自分をもう一度外から眺めるようにしてみよう。”なんだ、お前は。 この世の中でマメツブほどのチッポケな存在だ。それがウヌボレたり、また自分を見くだして、いやになったりしている。バカなことだ”と突っぱなして、いまの状態をアリアリと見るんだ。 それで投げてしまうんじゃない。自分がマメッブならそれでいい。小さな存在こそ世界をおおうのだ。
- おれはあんまり頭もよくないし、才能のない普通の人間だから何もできないんじゃないか、なんて考えてるのはごまかしだ。そう言って自分がやらない口実にしているだけだ。 才能なんてないほうがいい。才能なんて勝手にしやがれだ。才能のある者だけがこの世で偉いんじゃない。 才能のあるなしにかかわらず、自分として純粋に生きることが、人間のほんとうの生き方だ。頭がいいとか、体がいいとか、また才能があるなんてことは逆に生きていく上で、マイナスを背負うことだと思った方がいいくらいだ。
- 社会や周囲が否定的であればあるほど行動を起こす。そしてそれは中途半端ではいけない。とことん明朗に、自分をごまかさずにやれば案外通るのだ
- 恋愛も芸術も一体。全身でぶつかること
- 人間は本来、瞬間瞬間に、無償、無目的に爆発し続けるべき。全身全霊が宇宙に向かって無条件にパーッと開くこと。それが「爆発」だ。
- 「幸福」などでは人は満たされない。「生命感」が重要。
- いわゆる機械工業、能率、生産第一、植民地主義、近代社会がいかに誇らしく見せかけていても、人間存在を空しくし、歪曲化してしまったことは確かだ。いま先進国と称する国の、その第一線の都会で、いかに人々が暗い、空しい顔をしているか。 ぼくはこの時点でこそ、逆の発想を展開すべきだと思う。人間は本来、非合理的存在でもある。割り切れる面ばかりでなく、いわば無目的な、計算外の領域に生命を飛躍させなければ生きがいがない。ただの技術主義だけでは空しい。進歩、発展に役立つという、条件づけられた技術ではなく、まったく無償に夢をひろげていくこと。ナマ身で運命と対決して歓喜するのがほんとうの生命感なのだ。そのような全存在的充実感をとり戻すのでなければ、何のためのテクノロジーか、とぼくは思う。 これはそのまま、真の生き方、人間性、つまり芸術の問題でもある
- 情熱を注ぎ込んで、つくる。手作りは決して器用である必要はない
- 「あなたは優れた芸術家なのに、どうして民族学をやったんですか」 ぼくは「人類の職業分化に反対だから」と答えた。絵描きは絵描き、学者は学者、靴屋は靴屋、役人は役人、というように職業の狭い枠の中に入ってしまって、全人間的に生きようとしない、それが現代のむなしさなんだ・・・・・・まだ他にもいるいろしゃべって、この映画はイタリアのアゾロの映画祭で大賞をとったんだ。
- 自分を大事にしようとするから、逆に生きがいを失ってしまうのだ。 己を殺す決意と情熱を持って危険に対面し、生きぬかなければならない。今日の、すべてが虚無化したこの時点でこそ、かつての時代よりも一段と強烈に挑むべきだ。 強烈に生きることは常に死を前提にしている。死という最もきびしい運命と直面して、はじめていのちが奮い立つのだ。死はただ生理的な終焉ではなく、日常生活の中に瞬間瞬間にたちあらわれるものだ。この世の中で自分を純粋に貫こうとしたら、生きがいに賭けようとすれば、必ず絶望的な危険をともなら。 そのとき「死」が現前するのだ。情性的にすごせば死の危機感は遠ざかる。
得たもの
- 情熱と生命感を持つ
- 「死」の危機感を持って生きる ←足りていなかったもの
ネクストアクション
- 事業づくり、組織づくりをどこまでも本気でやる
- 無条件に感じるものに最優先で動く